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[8301] 「禅」は万能ではないこと

投稿者: ぐると 投稿日:2020年10月 9日(金)23時17分57秒   通報   返信・引用

神経症の治りと「禅」とは密接なつながりがあると、いちおういえるだろう。
じっさいに「禅」を知ることで「神経症が治った」、という人は多いようだ。

「禅」とは神経症に絡んでいえば、いわば「森田療法の奥の院」みたいなもので
「森田療法を齧(かじ)った人が最後に辿り着く治しの場」「森田通(笑)の集う場所」である
ようである。おそらく管理人などもその1人に入るだろう(笑)。

「森田理論学習」や「森田の入院療法」に飽き足らず、または「それではよくならなかった人」が、
「鈴木知準」や「宇佐晋一」の本、あるいは「このサイト」「人生問題の解決」サイトなどに
感化されて「神経症を治すには禅しかない!」と「最後の頼みの綱」のように思うみたいだ。

管理人は毎月「無為療法 禅の講義」と題して「鈴木大拙の本」の引用を解説しているし、
HNさんも「神経症を知り、治す」のに「鈴木大拙」を読むことを推奨している。

しかし当然ながら「禅」も万能ではない。「禅の奥義」をきわめれば「人生の奥義」がきわめられ、
あらゆる物ごと、出来ごとを快刀乱麻を断つごとく解決できる「万能の切り札」ということではない。

それで管理人の「禅の講義」の解説、よい点もあるが「弊害」も多い。
http://mui-therapy.org/zen/zen.htm

何より「ああでもない、こうでもない」が多すぎる。そうやってあれこれ説明した挙句、
最後はいつも「禅は言葉ではない」「禅は言葉による説明を嫌う」と逃げて煙に巻く。9月のもそうだ。
さらにたいてい、ついでに「私は神経症の議論などしない。このように治った人は言葉ではなく
目の前の雑用に忙しい」などというイヤミったらしいオチが結尾につく(笑)。
これでは何かのペダントリーか、自分がいかによく「神経症を治したか」「禅がわかるか」を
周囲に威張りたいがための、独りよがりな空自慢な文章と取られてもしかたあるまい。
またなんとなく文面から「理解してもらおう」という姿勢があまり匂ってこないようでもある。

ちなみに「禅の世界」を理解するには「何か特別な学習」も必要ないし、
べつに「鈴木大拙の本を全巻読む(考えただけでもため息が出る話。あんな難読そうな文体なのに。
私には無理《笑》)」必要もない。ましてや「死に物狂いの修行」など狂気の沙汰だ。

神経症の人はそれまでさんざん神経症を治すために悪戦苦闘して、その都度失敗しているのだから、
いわばそれが神経症の人にとっての「学習」であり「修行」だったわけだ。
あれこれ悩んでどこにも解決が見つからなくなった時、おのずと心は自分の内側に行く。
動かせない「心の事実」に行き当たる。それが「悟り」です。

その後の「学習や修行」は現実の生活という「実地」でやるべきだし、またそうでなくては意味がない。

「禅」をあたかも「神経症治しの秘奥義」さらには「人生の秘奥義」であるとばかりに珍重し(笑)、
きわめたら「神経症など跡形もなく雲散霧消」、さらにはその後の人生の「万能の剱」だとばかりに、
「禅を学び、修行しつくした(?)」その先に、何か「特別な境地」があるかのように勘違いしている
人がいるとしたら、まったく愚かしいことだ。「そんな境地などないよ」ということである。

もしそのような「禅」の向こうに「神経症を超越した特別な境地がある」と思う人がいるとすれば、
何のことはない、それはこれまであなたがさんざんやってきた「療法探し」とまったく同じである。

「禅」を学べば神経症の成り立ちを知ることもできるし、自分の心の奥底を覗くこともできるだろう。
HNさんが「無意識にも意識があった」などと書いてるのも「禅」絡みの内容であることは間違いない。

だから「禅の講釈」などに深入りせずに、凡そがわかったら「禅」の学習などほどほどにして、
もう自分の普段の仕事生活や趣味余暇に戻って、そちらに注力、充実させるべきである。

ついでにいうと「○○先生の森田療法こそ本物」と、いまはない特定の「森田入院療法」を偏重して、
「あの先生の所で入院していれば、自分もいま頃治ってた(≒あの先生の所でないと神経症は治らない)」
なんて特別視したり思いつめたりするのも、上記「禅さえきわめれば、神経症は難なく解決する」と
いうのと同じ考え方で、安直な発想だということもつけ加えておきたい。


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